青春シンコペーションsfz


第1章 あ、開かない……!(3)


沈黙の果てに吸われた声は、いつまでも耳の奥で木霊していた。
外は豪雨。しかし、空に亀裂が走るような稲妻も、大地を砕くような雷鳴も、地中にあるこの倉庫にはほとんど伝わって来なかった。電気が途絶えた今、目の前には漆黒の闇だけがただ静かに広がっている。

「どうするの?」
背後で彩香の声がした。
「電気が戻れば……」
井倉が答える。しかし、その声は途中で闇に吸われて小さくなった。
「でも……」
彼女の声もまた闇に途絶える。
「きっとすぐに回復しますよ。最近はあまり長く停電しなくなったし……」
情報があればと二人は思った。だが、彼らは何も持っていなかった。端末もラジオも、そして腕時計さえ付けていない。

「すぐに電気が点きますよ」
励ますように井倉が言った。が、根拠などなかった。ただ、これまでの経験から漠然とそう思うだけで……。

「でも、保証はないわ」
「ハンス先生達が帰って来たら……きっと気付いてくれますよ」
「そうかもしれないけれど、この部屋、密封されてるのでしょう? こんなに狭くては酸素不足にならないかしら?」
軽く息を吸って彩香が言った。
「多分、大丈夫ですよ。換気扇があった筈だし、今は止まっているけど、そこには空気が通る道が開いている筈だから……」
「あなたって楽観的なのね」
「彩香さんが悲観的過ぎるんですよ」

彼女はその言葉に気分を害したのかそれからしばらくの間、じっと黙り込んでいた。その間に井倉は手探りで周囲を観察し始めた。先程見た限りではここに水や食料は備えられていないようだった。それでも、彼は箱の中や棚の上を確認せずにはいられなかった。積まれたダンボール箱の中はクリスマス用の飾りや電飾のケーブル。棚にあったのはプランターや工具類。あとはシートに猫砂。反対側には脚立とかなりの数の折りたたみ椅子。
(そうだ。扉の近くにコーナーラックがあった。さっきワインを置いた。あそこに何かないだろうか?)
井倉は身体の向きを変えると右手を伸ばした。
「ちょっと! 何するの?」
「あ、ごめん。そこにいたんだったね」
棚を探るつもりだった手が、偶然彼女に触れてしまったのだ。

「あまり動き回らない方がいいんじゃないの?」
彼女が言った。
「でも、周囲にある物を調べておけば、何か役立つことがあるかもしれない」
「さっきはすぐに電気が戻るから大丈夫だって言っていたじゃない。矛盾してるわ」
「でも、出来ることはやっておかないと……。常に最悪のことを考えて準備しておくことは大切だよ」
「最悪なことって?」
「たとえば、明日の朝まで電気が来ないとか……。ハンス先生達が何らかの理由で明日も戻って来られないとか、つまり、この状態で何日か過ごさなければいけなくなった時どうすべきかってこと……」

「あなたの方が余程悲観的じゃない」
ため息交じりに彩香が言う。
「万が一のことは考えておいた方がいいんだよ。人間、生きてると何が起きるかわからないから……」
「オーバーな人ね」
「オーバーじゃないさ」
拳を握った井倉の口調が強くなる。が、すぐにその拳を胸に当て、静かに開いて言った。

「……僕だって信じられなかったんだ。親父の会社が倒産して、離れて暮らしていた僕のピアノまで持って行かれてしまうなんて……」
「……」
「本当に思ってもみなかった。まさか……バイトで貯めた大学の授業料まで差し押さえられているなんて……」
井倉は肩で息を吸い、固くなった身体を解そうとするかのように何度か深呼吸を繰り返した。

「だからね、思いつく限りのことはなるべく早めに手を打っておこうって決めたんだ。そうでないと、想定外のことが起きた時、パニックになってしまうから……。そして、自分を見失ってビルの屋上から飛び降りるなんて馬鹿なことを……」
彼は自嘲するように笑みを浮かべた。その表情は誰にも見られることはなかったが、井倉自身の鏡の中で、いつまでも暗い反射を続けていた。
「あの時、もしハンス先生に助けられていなかったら……。そう思うと自分が恐ろしくなる。今でも夢に見るんだ。だからね、出来ることはなるべく準備しておこうって決めた」
彩香は何も言わなかった。

「今、ざっと見た限り、ここにはさっき僕が持って来たワイン以外、口に入れられそうな物は何もない」
「じゃあ、どうするの? 長引いたら……」
か細い声で彩香が訊いた。
「まあ、一晩くらいなら死ぬようなことはないと思うけど……」
「でも……熱中症になったらどうするの? 電気が止まっているから冷房も効かないのよ」
彩香が神経質そうな声で訊いた。
「さっきのワインがある。これで何とかなるかもしれない」
「ワインですって? あなたってほんとに脳天気な人ね。冷房が止まって、暑くなっているのに、アルコールなんか飲んだらますます体温が上がってしまうわ」
「そうかもしれないけど……。他に水分を摂る方法がないし……」
「その前に電気が点くわよ」
雷の音はまだ聞こえていた。雨もまだ降り続いているらしい。

「立っていたんじゃ疲れるだろう? ここに折りたたみの椅子があるから広げるよ。ここに座って休んだらいい」
井倉はそう言って広げた椅子を叩いて言う。彼女はその音に近づくと、位置を確かめようと手を伸ばした。背もたれにあった彼の手に触れて驚き、慌てて引っ込めた。
「いやだ。そんなところに手をおいておくんだもの。うっかり触ってしまったじゃないの」
「仕方がないだろ? 今この椅子を広げていたんだ。君の椅子はそっち」
「そっちってどっちよ」
彼女は椅子の周りをそろそろと歩く。
「いてて。彩香さん、僕の足踏んでるよ」
「あら、失礼。でも、仕方が無いわよ。そんな所に足出してるんだもの」

「声のする方向くらいわかるだろ?」
「何? 偉そうなこと言わないでよ。こんな真っ暗なのよ。それに狭いし、物にぶつからないように歩くのなんてとても無理だわ」
「暗闇だから気を付けてと言ってるんだ」
「わたしに命令しないで!」
「別に命令している訳じゃないよ」
「命令してるじゃない。わたしにだっていざという時のための準備や心構えくらい出来ていてよ」
「わかってるさ。でも、僕は心配なんだ」
「よけいなお世話よ。そもそも扉にストッパーを掛けておかなかったのがいけなかったのよ」
「確かに……。こんな重い扉だからそう簡単には動かないだろうって思ってた。それに、ほんの少しの間だからと油断したんだ。次からは気を付けるよ」
二人は椅子に掛けたが、いつまで待っても目は闇に慣れることはなかった。小さなパイロットランプ一つでいい。明かりが点いてくれたらと願った。

密閉された倉庫の中は気温が上昇していた。井倉は何とか気を紛らわせようと、練習中の曲を頭の中で再生し、指を動かしてみた。そこはホールの舞台なのだと想像してみる。客席は超満員。煌めくライトの下で、自分は大きなコンサートピアノの前にいる。耳が痛くなるほどの拍手を浴びて、今最初の一音を弾く。曲は……リストの「ため息」柔らかな調べの中に微かに煌めく光のような音を鏤めた美しい旋律……。

――いけませんね。ほら、最初の音が浮いてしまっている。今、左手が少し遅れました。それにメロディーが聞こえない。このままではとてもデビュー出来ないですよ

ハンスの厳しい指摘に身を震わせる。
(ああ。やっぱり僕は駄目なんだ。こんなミスばかりして……これじゃあ、とても舞台になんか立てやしない……)
明るい照明が遠くなり、グランドピアノはどんどん広がって巨大化し、ついにはその漆黒で何もかもを覆い隠し、世界のすべてを闇に包んだ。

(駄目なんだ。このままじゃ……)
膝の上に置いた手を石のように固く握ると、井倉は正面の闇を見つめた。

その時、微かな風が通り過ぎて行った。耳を澄ませば彩香の息遣いを感じる。
(そうだ。僕は今一人じゃない)
井倉は彩香の方を見た。うっすらと輪郭が浮き上がって見えるような気がした。彼女は淡い光に包まれて眠っている。触れてはいけない異世界の精霊のように……。井倉は目を瞬かせ、じっと彼女を見つめた。
(僕は夢を見ているのだろうか)
やがて彼女が目を覚まし、こちらに首を傾けて微笑む。それは井倉だけに向けられた特別な微笑み。胸はときめき、至福の喜びに口元が綻ぶ。
「彩香ちゃん……」
思わず名前を呼んだ。が、そこには淡い光も微笑みもなかった。そこにあるのはただ、闇と沈黙。井倉は頬を染めて俯いた。
(幻想だ。ここにいる彼女はとても僕に微笑みをくれたりしない……)
井倉は半ば諦めたように指を動かす。

「リストの「ため息」……わたしも好きよ」
闇の中から声がした。
「彩香さん……」
「だから、もっとましな音で弾きなさい」
口調はきつかったが、彩香にそれが伝わったのかと思うと胸が躍った。
「彩香さん、僕……」
身体中から汗が吹き出して来る。
(これじゃ、サウナみたいだ。こんなに近くに彩香さんといられるのに……。汗臭くないかなあ)
ハンカチは何度も汗を拭ったせいでぐしょぐしょに濡れていた。

「暑いわね……」
彩香がぽつんと言う。
「もう雨は上がったんじゃないかしら? 雷の音もやんだみたいだし……」
「そういえばそうだね」
一つ一つは短い会話だった。そして、途切れる度に闇が深くなるような気がした。

「怖くなかったの?」
それからまた随分時が経った頃、彼女が訊いた。
「……?」
一瞬、何のことかわからなかった。
「ハンス先生に助けられたと言ったでしょう? ビルから飛び降りたって……そんなことして、怖くなかったのかって訊いたのよ」
僅かに洋服が擦れる音がした。

「怖くなかった……」
躊躇わずに彼は言った。彼女がこちらを見た。いや、実際に見たのかどうかはわからない。ただ、そんな気配がしたのだ。
「本当のところは自分でもよく覚えていないんだ。ただ、数日前から何も食べていなかったし、行く当てもなかった。その日は丁度ハンス先生のレッスンの日で、ああ、今頃は君がレッスンを受けている時間なんだろうなって思って、屋上からぼんやり音大の建物を見てた。ほんとに覚えていないんだ。いろんなことが頭に過ぎって、夕焼けの中にきれいな星が輝いてた。もしかしたら、それを取りたくて手を伸ばしたのかもしれない。届く筈のない幻想に……。そして、掴んだって思ったんだ。そしたら、急に身体が軽くなって……。気が付いたら目の前にハンス先生がいて……。先生は笑って、よかったねって……。それから……」

――僕が君を拾ったですよ

ハンスの金色の髪が闇の中に浮かび、水色の瞳が漆黒に変わるとそのまま夜に溶けて見えなくなった。
「何故、言ってくれなかったの?」
井倉は思わず彼女の方を見た。目には見えなくても、そこにいる筈の彼女をじっと見つめた。
「そんなに困っていたのなら……。一言相談して欲しかった」
「……出来ないんです」
井倉が言った。
「何故?」
「迷惑掛けたくなかったから……」

「馬鹿よ」
彼女が言った。
「いつもハンス先生がいて、助けてくれる訳じゃないでしょう?」
「わかってる。これがどんなにすごい奇跡だったのかって……。だから、今は精一杯頑張って、ハンス先生に恩返ししたいと思ってる」
「それで家政夫をやってるって訳?」
「それもある。けど、今はこの家の人達が好きだから……。ハンス先生も美樹さんも、それにあの可愛らしい猫達も……」
そう言って彼らははっとした。
「先生に頼まれたのに……。どうしましょう。これじゃあ猫達に餌をあげられないわ」
彩香が嘆く。
「仕方ないですよ。まさかこんなことになるなんて思わなかったし……」
「でも……。もし、わたしのせいで猫達を死なせてしまったら……」
「1回くらい餌を忘れたくらいで死んだりしませんよ」
「そうかしら?」
彩香はすっかり元気をなくしていた。
「やさしいんですね」
井倉が言った。
「何言ってるのよ! 元はと言えばあなたの責任なんですからね!」
「確かに……」
井倉が頷く。

「それにしても喉が渇いたわ」
「僕もです。唇が渇いてくっつきそうだし、お腹も空いたな。今何時なんだろう?」
「私が降りて来た時は6時半くらいだったけど……。3時間くらいは経ってるんじゃないかしら?」
「夜明けまでにはまだ大分ありますね」


それからまた、数時間が経過したが、電気が回復する気配はなかった。そして、ハンス達が帰って来た様子もない。暑さのせいで彼らは疲弊していた。

「暑い……」
喘ぐように彩香が呟く。呼吸も少し乱れているように思えた。
「大丈夫ですか? やっぱりこのワインを開けて飲みましょう。幸い、そこに工具もあったから何とか開けられると思います」
井倉はそう言うとまた、手探りで工具箱を見つけた。そこにあった釘を使ってコルク栓を開けた。
「ほら、彩香さん、これを飲んで」
瓶を差し出す」
「でも、グラスがないわ」
「瓶に直接口を付ければいいですよ」
「そんな、下品だわ。欲しいならあなたが飲めばいいじゃない」
「でも……」
「いいから飲みなさい」
彩香が強く言うので、彼はそれを少しだけ口に含んだ。
「少しカッとするけど、芳醇で美味しいワインですよ」
「だったら全部飲んだら?」
「そんなに飲んだら、いくら何でも酔っ払っちゃいますよ。彩香さんもこれを少し飲んで水分を補給しないと……」
「ちょっと! 押し付けないで! あなたが唇を付けた瓶で、わたしに飲めと言うの? それって間接キスじゃない。いやよ!」
「間接キス……」
井倉はボトルを持ったまま呆然とした。
(それって……。確かにあまり強く勧めたら、まるで僕がキスを強要してるみたいになるし……。でも、水分は必要だ。このままじゃ熱中症になってしまう)

そしてまた、時間が過ぎた。
「ねえ、何か喋りなさいよ。黙ってると眠くなってしまうわ」
「眠ってもいいですよ。僕が見張っていますから……」
「……」
彼女の視線を感じて井倉はわざと動いて椅子を軋ませた。
「あなたより先に寝るのはいやよ。だって、あなたも一応男なんだし……。この状況を考えたらとても無理」
「信用ないんですね」
「一般論よ。でも……」
「僕、もう一度試してみます」
そう言うと井倉は慎重に歩むと扉を開けようとした。
「何かがつかえているのかな?」
彼はばんばんと手のひらで扉を叩いた。
「ちょっと、やめて! 頭に響くわ」
彩香も立ち上がって言った。その足元に瓶があった。
「これ、やっぱりわたしももらうわ」
彩香は軽く差し込んであったコルクを抜くとそれを飲んだ。
「美味しい……」
彩香が言った。
「そうでしょう? 水分は大事です。無理しないで飲んでください。熱中症になったら大変だ」
「そうね。やっと口の中が潤ったわ。あなたも我慢しないで飲みなさいよ。ちっとも減っていないじゃない」
そう言って彩香が瓶を差し出す。
「ちゃんと飲みましたよ。これは大事な命綱ですから……」
そうして、二人は少しずつワインを飲んで渇きを癒やした。

「何だか退屈ね。井倉、何か話して」
「じゃあ、しりとりでもしますか?」
「いやだ。子どもみたいじゃない」
「そういえば、子どもの頃、よくやりましたね」
「そうよ。井倉ってば、いつも『ん』が付く言葉を言って負けちゃうの。それで負けると泣くんだもの。まるで、わたしがいじめたみたいでいやだったわ」
「そうですか? でも、ほんとに悔しくて……。何やっても彩香さんには叶わなくて……。一度でいいから、君を泣かしてみたい……なんて妄想してました」
「何ですって?」
彩香が睨む。
「すみません。本気じゃないです。ただ、きっと可愛いんだろうなって……。泣き顔も……。いつも気品のある豪華な薔薇のような君の笑顔が眩しくて、少し近寄りづらいって思ってたから……。僕なんてとても彩香さんとは釣り合いが取れないから……それでも、子どもの頃には一緒に話したり、遊んだりしてたのに……。それが、どうして届かない所に行ってしまったんだろうなって思うと……」
「そうあなたは届かない所に行ってしまった……」
彩香がぽつんとそう言った。井倉は思わずはっとして息を呑んだ。
「さよならも言わないで、突然引っ越してしまった……。それを知った時の悲しみを、あなたは知らないのでしょうね」
「彩香さん……」
想いが胸に込み上げて言葉が見つからなくなった。そこに彩香の手が伸びてボトルを取ると2度口を付けてワインを飲んだ。
「さあ、あなたも飲みなさい。この暑さたまらないわ」
「そ、そうですね」
井倉も口を付けてそれを飲んだ。

「ああ、何とかならないの? 暑くて死にそう」
彩香がスカートを摘まんでぱたぱたと扇ぐ。
「そうですね」
井倉は着ていたシャツを脱いで彩香の方に風を送った。
「涼しい……。でも、暑い」
彩香が手で扇ごうとひらひらする。その手に井倉の肌が触れる。
「え? いやだ。井倉ってば服着てないの?」
「暑くて……」
「デリカシーのない人ね。レディーの前で服を脱ぐなんて……」
「でも、ここは暑過ぎるし、暗闇じゃ見えないんだから、君も脱いじゃえば?」
「馬鹿! 何てこと言うのよ! 変態!」
彩香は再び瓶を持つとワインを飲んだ。
「そうね。どうせ、あなたには見えていないのよね」
彼女はそう言うとブラウスのボタンを外し、ストッキングを脱いだ。
「これで、少し涼しくなったわ」
「僕、ズボンも脱いじゃおうかな?」
「そうよ。きっとさっぱりするわよ」
「あーあ。汗でびしょびしょだ」
「ちょっと向こうを向いててね」
彩香が言った。
「何してるんですか?」
「内緒」
「じゃあ、僕も内緒」
そうして、二人はへらへらと笑いながら会話を続けた。

そして、しばらくすると突然、彩香が言った。
「寒い……」
「明け方なのかな? 気温が下がって来たのかもしれませんね」
瓶は空っぽになって転がっていた。
彩香がクシュンとくしゃみする。
「大丈夫ですか? 風邪なんかひいたら大変だ。あたためなきゃ……」


朝、ハンス達が帰って来ると、猫達が鳴きながら足元に絡み付いて来た。
「何だ。まだ朝食もらってないですか?」
彼が階段の下の収納庫を見るとフードがなかった。
「あれ? 彩香さん、また下に持って行っちゃったですかね?」
ハンスが地下に降りて行こうとすると電気が点かない。
「美樹ちゃん電気切れてるですよ」
「昨日凄い雷あったらしいから、停電してたのかも……。ちょっと待ってね。今、懐中電気持って来るから……」
美樹が持って来たそれで照らしながら階段を降りて行く。
「ああ、やっぱりどこも点かないや。ブレーカーが落ちているみたいです」

そして、キッチンの脇の扉を開けようとして首を傾げる。
「あれ? どうして開かないんだろ?」
よく見ると扉の下にコルクスクリューが挟まっていた。
「どうやら、犯人はこれのようです」
ハンスがそれを取り除き、扉をあける。そして、懐中電灯で中を照らす。
「あ!」
後から付いて来た美樹も驚いて口を押さえる。
「井倉君! 彩香さん! どうしたですか? こんな……」
ハンスが駆け寄る。二人は下着姿で、重なり合うように床に倒れていた。近くには脱ぎ散らかした服とワインの瓶が転がっていた。
「何があったですか?」
ハンスが井倉を抱き起こす。そして、美樹は彩香の傍に行くと呼び掛けた。
「彩香さん、大丈夫? しっかりして!」
二人はぐったりしていた。
「大変! 救急車呼ばなくちゃ……」
美樹が立ち上がろうとすると彩香が止めた。
「大丈夫よ。それより早くピクニックに行きましょう」
「ピクニック?」
美樹は困惑してハンスを見た。
「井倉君、いったいどうしたですか?」
ハンスの問いに井倉はとろんとした目で彼を見つめるといきなり抱きついて言った。
「彩香ちゃん、愛してる……」

「これはいけません。すぐに救急車を……」
ハンスが言う。
「ダメェ―!」
彩香が叫んだ。
「でも……」
「わたし達、ワイン飲んだだけなんですもの。救急車なんて大げさなことされたら、お父様に連れ戻されちゃう! そんなの彩香は絶対にいや! これから、みんなでピクニックに行くんだもん!」
彩香が早口で言って笑った。
「わかったわ。じゃあ、ドクターに往診に来てもらいましょう。一応診てもらわないと心配だから……」
美樹が彼女にブラウスを羽織らせ、宥めるように言った。
「取り合えず、僕は井倉君を上に運びます。美樹ちゃんは彩香さんのことお願い。歩けないようなら、僕来ます」
そう言うとハンスは井倉を抱えて階段を上がって行った。


往診してもらった医者によると、二人は熱中症を起こし掛けていたが、水分を多目に摂ってしばらく安静にしていれば心配はないということだった。空腹のところにアルコールが入り、酔いが回るのが早かったのだろうと……。
「本当に申し訳ありませんでした」
二人が頭を下げる。
「いいのよ。あなた達が無事で本当に良かったわ」
美樹が安堵したように言った。
「ほんと。まさか、あんな所に閉じ込められてるなんて思わなかったから驚いたです」
ハンスも言った。
「まあ、何事もなくて良かったな。だが、井倉、練習を休んだ分、早く取り返さないとな」
黒木が発破を掛ける。
「はい」
井倉が神妙に返事した時、ハンスの携帯が鳴った。

「はい。何だ。フリードリッヒか。え? 明日帰って来るだって? 何でさ。まだそっちでゆっくりしてればいいのに……」
――「そうもしていられないのさ。実は君にビッグニュースがあるんだ」
「ビッグニュース? 何だよ。もったいぶらないで言えよ」
――「それは着いてからのお楽しみさ。じゃあ、準備もあるから、明日、会おう。楽しみにしているよ、私の愛しいハンスちゃん」
そこで通話は切れた。
「まったく腹立たしい奴だ」
思わず携帯を叩き付けそうになったが、みんなが注目していたので何とか踏みとどまった。

「ハンス先生、フリードリッヒが何か?」
黒木が訊いた。
「明日こっちに来るそうです」
不機嫌な調子でハンスが答える。
「明日? それはまた急ですね」
黒木がのんびりと顎を撫でて言う。その前を横切って、ハンスは井倉に近づくと言った。

「井倉君の仕上がり具合はどうかって、心配なので予定を早めて来るそうです」
「え?」
井倉は冷や汗を掻きながらハンスを見た。
「もう逃げられませんよ」
ハンスが意地悪く笑う。
「そ、そんな……」
井倉は周囲を見回したが、誰も助けてくれる者はいなかった。